丸岡城は、戦国時代の天正4年(1576年)に織田信長の命によって柴田勝家の甥である柴田勝豊によって築かれました。
現存する天守閣の中でも最も古い建築様式を持つ平山城です。別名「霞ヶ城」とも呼ばれ、春には満開の桜の中に浮かぶ幻想的で美しい姿が特徴的です。
現在は天守閣の一部が残るのみですが、この天守は外観が二層、内部が三階の独立式望楼型で、入母屋造りの屋形に回縁勾欄付きの望楼を備えた初期天守の形式を伝えています。
城郭建築史上で重要な遺構とされ、国の重要文化財に指定されています
天守は本丸から約18メートル、城山のふもとから約35メートルの高さに位置し、大きな窓から東西南北の景色を楽しむことができます。特に西方からは日本海や三国の海岸まで一望できる素晴らしい眺望が広がっています。
石垣は古い方式の「野づら積み」で、すき間が多く粗雑な印象を与えますが、排水が良く大雨による崩壊の心配がないと言われています。
丸岡城の周辺は、「霞ヶ城公園」として整備されており、日本庭園のスタイルで作られています。この公園は、歴史的で文化的な資源を活用した素晴らしい場所として評価され、「日本の歴史公園百選」にも選ばれています。
城内には、丸岡城築城400年を記念して造られた日本庭園式公園や歴史民俗資料館があり、歴代城主に関連する品々が展示されています。
また、丸岡城天守を囲むように公園内には400本のソメイヨシノが植えられており、その美しさから「霞ヶ城」という別名にふさわしい趣を醸し出していて、日本のさくら名所100選にも選ばれています。
桜が満開の時期には、桜の花が作り出す霞の中に丸岡城が浮かび上がる幻想的な景色や、夜間にライトアップされた丸岡城と桜を楽しむことができます。その美しさからます。
また、4月には城下で丸岡城桜まつりも開催されます。夜にはボンボリに照らされた風景が幻想的で、期間中のメインイベント開催日にはステージイベントや地元の特産品の販売などが行われ、一層賑わいを見せます。
丸岡城は、別名として霞ヶ城と呼ばれており、江戸時代には丸岡藩の藩庁として機能していました。現存12天守の一つです。
この城は福井平野の丸岡市街地の東にある小高い丘陵に築かれた平山城で、近世には山麓部分が増築され、周囲には五角形の内堀が巡らされていました。
天守は安土桃山時代に建造されたと推定され、重要文化財に指定されています。他にも石垣が現存しており、移築されて現存している建物としては、小松市の興善寺やあわら市の蓮正寺に城門が、丸岡町野中山王の民家には「不明門」と伝わる城門があります。
また、土塀も一部が現存しています。現在は五角形の内堀は埋め立てられていますが、内堀の復元計画が浮上しています。
「霞ヶ城」という名前の由来は、合戦の際に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したという伝説によるものです。
2019年、坂井市からの委嘱を受けて行われた丸岡城調査研究委員会は、現存する天守が江戸時代の寛永年間(1624年-1644年)に建造されたと推定する報告を明らかにしました。
現在、北陸地方で唯一残る天守が丸岡城です。この天守は、古いスタイルの外観で、大きな入母屋屋根の上に小さな望楼があります。以前は現存最古の天守とも言われていましたが、福井県坂井市教育委員会の調査により、この天守が江戸時代の寛永年間(1624年から1644年)に建てられたことが判明しました。
現在見ることができる天守は、1948年の福井地震で倒壊した後、1955年に部材の70%以上を再利用して修復再建されたものです。修復の際には最上階の窓のデザインが変更され、引き戸から突き上げ窓(蔀戸)になりました。
この天守は独立式の望楼型で、2階建ての3階建てです。1階の平面は天守台を包むように造られており、腰屋根が設置されています。
最初の建設時には、屋根は杮葺きで、木製で漆塗りに金箔押しされた鯱が取り付けられていました。後に、気候条件のために屋根瓦は笏谷石製の石瓦に変更されたと言われています。
天守内の階段は急なため、観光目的で補助縄が取り付けられています。
歴史・沿革
安土桃山時代・江戸時代
1576年(天正4年)、柴田勝家の甥であり、越前地域のほぼ全域を支配していた勝豊によって丸岡城が築かれました。勝豊はそれまでの豊原寺城から当城に移りました。
1582年(天正10年)、本能寺の変後の清洲会議により、勝豊は近江国の長浜城に移されました。その代わりに勝家は安井家清を城代として任命しました。
1583年(天正11年)、柴田勝家が豊臣秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされると、この地は丹羽長秀の領地となり、長秀は丸岡城の城主として青山宗勝(修理亮)を置きました。
1600年(慶長5年)、丹羽長秀の死後、青山宗勝とその子である忠元は関ヶ原の戦いで西軍側の敗者となり、改易されました。その後、越前国には勝者である徳川家康の次男である結城秀康が入封し、丸岡城には秀康の家臣である今村盛次が2万6千石の領地を与えられて入城しました。
1612年(慶長17年)、今村盛次は越前騒動に関連して失脚し、幕府から福井藩の附家老として派遣された本多成重が新たな城主となりました。
1624年(寛永元年)、福井藩2代目の松平忠直が不行跡のために豊後に流され、福井藩は減封されました。同時に本多成重は福井藩から独立し、丸岡藩が成立しました。
1695年(元禄8年)、4代目の重益の治世において、本多家の丸岡藩で家族内の争いが起こり、幕府の判定により改易されました。その代わりに有馬清純が越後国糸魚川藩から5万石で入城しました。以後、有馬氏が丸岡藩の6代目城主となり、明治維新を迎えました。
近現代
1871年(明治4年)、廃藩置県により丸岡城は廃城となり、天守以外の建物は全て解体・撤去されました。
1901年(明治34年)、残された天守は丸岡町(当時)によって買い戻され、解体を免れました。城跡は公園として整備されました。本丸を囲んでいた堀は、大正後期から昭和初期にかけて徐々に埋められ、消滅しました。
1934年(昭和9年)1月30日、天守は国宝保存法(旧法)に基づいて国宝に指定されました。
1948年(昭和23年)、福井地震により天守が倒壊しました。
1950年(昭和25年)、文化財保護法(新法)の施行により、天守は重要文化財に指定されました。
1955年(昭和30年)、倒壊した天守は元の材料を使用して修復されました。
1990年(平成2年)、霞ヶ城公園として日本さくら名所100選に選定されました。
2006年(平成18年)4月6日、丸岡城は日本100名城(36番)に選定されました。
8:30~17:00
無休
大人 450円
小中学生 150円
JR芦原温泉駅から京福バス永平寺行きで約20分、丸岡城下車すぐ
JR福井駅から京福バス丸岡城行きで約50分、丸岡城下車すぐ
北陸自動車道 丸岡ICから車で5分