福井県 » 勝山・大野

越前大野城

(えちぜん おおのじょう)

雲海に浮かぶ天空の城

織田信長から3分の2の大野郡を与えられた織田信長のエリート家臣団「赤母衣衆」の一人である金森長近が、大野盆地にある亀山と呼ばれる標高約249メートルの山に築いた平山城です。

築城には天正4年(1576年)から4年の歳月を要し、当時は2層3階建ての大天守を中心に、2層2階の小天守閣、天狗書院の櫓、二の丸、三の丸が立ち並ぶ壮大な城で、外堀と内堀で城を守っていました。

城の土台となる石垣は、自然石を積み上げる野面積みという工法で作られています。

かつては大野藩の藩庁が置かれていました。しかし江戸時代後期に焼失しました。

現在は1968年に再建された天守閣や天狗書院、野面積みの石垣が往時を偲ばせます。周辺は眺望の良い史跡公園として整備されています。

現在の天守は昭和43年に再建され、城内には歴代の城主の遺品などが展示されています。

越前大野城は、晩秋から春にかけての気象条件によって大野盆地全体が雲海に包まれ、越前大野城だけが浮かんで見える幻想的な景色が楽しめます。

この景色から「天空の城 越前大野城」とも称され、続日本100名城にも選定されています。そのため、多くの人々が訪れて賑わっています。「続日本100名城」の一つに選定されました。

大野は古くから越前と美濃の両国を結ぶ交通の要所として栄えてきました。

越前大野城の始まりは、織田信長の家臣である金森長近が1575年に織田信長から朝倉氏滅亡後や越前一向一揆を平定した恩賞として3万石の領地を与えられたことにさかのぼります。

金森長近が大野城主となり、翌年の1576年に戌山城の近くにある亀山(大野盆地の小さな山)に城郭を築き始めました。彼は要仲素玄と号し、一家の茶系を築きました。

築城には4年間を要し、1580年に完成しました。天守は亀山の山頂に建てられています。

さらに京都に似た格子状の城下町を建設しました。このことが大野を「北陸の小京都」として栄える原因となり、現在の市街地の起源となりました。その後、約430年間にわたり、大野は奥越前の中心地として栄えました。

その後、城主は頻繁に替わり、かつては2重3階の大天守に2重2階の小天守と天狗櫓が連結された複合建築でしたが、1775年には焼失し、1795年に天守以外が再建されましたが、天守は再建されることはありませんでした。明治維新後に破却されました。

また、土井利忠は江戸時代の大野七代藩主であり、藩政を大改革し、軍制の改革や洋式船建造、蝦夷地開拓、病院の創設などで知られています。特に洋学振興に努め、多くの洋書を翻訳・出版しました。

昭和に再建された越前大野城は、竹田城や備中松山城と並んで、「天空の城」として知られています。特定の気象条件が整う10月から4月までの期間に、城(城跡)が雲海に浮かぶ美しい光景が見られますが、その風景は年に数えるほどしか現れません。

現在、山頂には石垣や堀が残り、山麓部には一部の内堀と外堀が残っています。建造物としては、不明門や鳩門の門部分が移築されて光明寺山門として現存しています。また、8代利忠の隠居所も移築され、現在は柳廼社社務所として残っています。

復興天守

現在、山頂に建つ天守は1968年に建てられたものであり、元士族の萩原貞の寄付金を元に復元されました。絵図や同時期の他の城の天守を参考に、鉄筋コンクリート構造で再建されましたが、小天守の位置が天狗櫓の代わりに建てられているなど、厳密な復元ではありません。

復興天守は4階建てで、歴代の城主に関する資料を展示する資料館(1階から3階)と展望台(最上階の4階)になっています。ただし、12月から翌年3月までは冬季閉館となっています。

Information

名称
越前大野城
(えちぜん おおのじょう)
リンク
公式サイト
住所
福井県大野市城町3-109
電話番号
0779-66-0234
営業時間

4月~9月 9:00~17:00
10月~11月 9:00~16:00

定休日

冬季(12月~3月)

料金

大人 300円
中学生以下 無料

アクセス

JR越前大野駅から天守閣まで徒歩40分

北陸自動車道 福井ICから登り口まで車で約30分

勝山・大野

福井県